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東京高等裁判所 平成元年(行ケ)131号 判決

原告

日本鋼管株式会社

被告

特許庁長官

主文

特許庁が昭和六〇年審判第八九六六号事件について平成元年四月一三日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

主文同旨の判決

二  被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決

第二請求の原因

一  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和五六年二月二〇日、名称を「剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板」とする発明(以下「本願発明」という。)につき特許出願(昭和五六年特許願第二二九四八号)をしたところ、昭和六〇年三月一日拒絶査定を受けたので、同年五月一六日審判を請求し、昭和六〇年審判第八九六六号事件として審理された結果、平成元年四月一三日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決がなされ、その謄本は同年五月二四日原告に送達された。

二  本願発明の要旨

1  C:〇・〇二~〇・一五%、Si:〇・九%以下、Mn:〇・三~二・〇%、P:〇・一〇〇%以下、S:〇・〇一五%以下、Sol・Al:〇・〇二〇~〇・一〇〇%で残部がFe及び不可避不純物より成る鋼において、フエライトと低温変態相の二相組織からなり、該二相組織中での低温変態相の体積率が三〇%以下で、しかもマルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下であることを特徴とする剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板(以下「本願第一発明」という。)

2  C:〇・〇二~〇・一五%、Si:〇・九%以下、Mn:〇・三~二・〇%、P:〇・一〇〇%以下、S:〇・〇一五%以下、Sol・Al:〇・〇二〇~〇・一〇〇%を含有すると共に〇・一%以下のv、一・五%以下のCr、一・〇%以下のMo、二・〇%以下のNiの何れか一種又は二種以上をも含有し残部がFe及び不可避不純物より成る鋼において、フエライトと低温変態相の二相組織からなり、該二相組織中での低温変態相の体積率が三〇%以下で、しかもマルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下であることを特徴とする剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板(以下「本願第二発明」という。)

(別紙参照)

三  審決の理由の要点

1  本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。

2  これに対して、原査定の拒絶理由に引用した昭和五四年特許出願公開第一六三七一八号公報(以下「引用例」という。)には、C 〇・〇三~〇・一二%、Mn 〇・七~一・七%を基本組成とし、残部鉄及び不可避的不純物から成る鋼を、通常の熱延仕上・捲取の後、熱延ままかあるいは更に冷間圧延して七三〇~八五〇度Cの温度範囲にて連続焼鈍を行い、温度六〇度C以上の温水あるいは沸騰水中に急冷することにより、フエライト相と急冷変態相とを主要な組織構成要素とし、かつ〇・六以下の降伏比(降伏強度/引張強度)をもつ低降伏比高強度複合組織鋼板の製造方法、の発明が記載されており、これに加えて、その発明の詳細な説明の項における実施例1の記載において、C 〇・〇五四~〇・一一〇%、Si〇・〇一~〇・三〇%、Mn〇・三八~一・九八%、P 〇・〇〇四~〇・〇七六%、S 〇・〇〇六~〇・〇〇八%、Al〇・〇二五%~〇・〇六〇%を含有した鋼、が記載されており、Si、P、S及びAlの含有量としてこれらを採用した上で、引用例に記載された発明を本願発明の技術内容に則して表現すると、C 〇・〇三~〇・一二%、Si〇・〇一~〇・三〇%、Mn 〇・七~一・七%、P 〇・〇〇四~〇・〇七六%、S 〇・〇〇六~〇・〇〇八%、Sol・Al〇・〇二五~〇・〇六〇%で残部が鉄及び不可避不純物より成る鋼において、フエライトと低温変態相の二相組織からなることを特徴とする二相組織鋼板、の発明と表現することができる。

3  そして、本願第一発明及び第二発明と引用例に記載された発明とを対比すると、①前者は、二相組織中での低温変態相の体積率が三〇%以下であるとともに、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下であり、さらに、②前者の第二発明はv、Cr、Mo及びNiの何れか一種又は二種をも含有するのに対して、後者は、これらの数値限定及びこれらの元素を含有していない点(以下、「相違点」という。)において相違し、その余の点では、両者は軌を一にしている。

次に、これらの相違点について検討すると、①引用例に記載された発明の鋼板のように炭素の含有率が低くてしかも冷却速度が速い場合には、二相組織中での低温変態相の体積率が低くなることは自ずから明らかであり、また、引用例の発明の詳細な説明の項における実施例2に記載されているように、冷却手段として水冷ないし沸騰水冷却する場合には、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が小さくなることは自ずから明らかであるので、引用例に記載された発明は、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比率の値が低く、また、二相組織中での低温変態相の体積率も低いものであると認められる。②また、v、Cr、Mo及びNiの何れか一種又は二種をも含有させることは、原査定の拒絶理由に引用した昭和五五年特許出願公開第三八九七九号公報及び昭和五五年特許出願公開第三八九〇号公報にも記載されているように周知の技術事項である。

したがつて、本願第一発明及び第二発明は、そのマルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値及び二相組織中での低温変態相の体積率を単に数値限定するとともに周知の技術事項を適用したにすぎず、かかることは、当業者であれば特段の創意なくして容易になし得たものと認められる。しかも、この点に関する剪断縁の加工性が優れるという効果は、引用例に記載された発明を実施することにより当然得られるものであつて格別顕著であるとは認められない。

以上のとおりであるから、本願第一発明及び第二発明は、引用例記載の発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるので、特許法第二九条第二項の規定により特許を受けることができない。

四  審決の取消事由

引用例に審決の理由の要点2摘示の技術内容が記載されていることは認めるが、審決は、本願発明(本願第一発明及び本願第二発明。以下同じ。)と引用例記載の発明とを対比判断するに当たり、本願発明と引用例記載の発明との相違点を看過し、また、引用例記載の技術内容を誤認し、かつ本願発明における数値限定の技術的意義を看過した結果、両発明の相違点①の判断を誤り、ひいて本願発明は引用例記載の発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたと誤つて判断したものであつて、違法であるから、取り消されるべきである。

1  本願発明は、剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板、より具体的には、剪断による割れ感受性が小さく、伸びフランジ成形性(穴拡げ性)や曲げ成形性の優れた二相組織鋼板を得ることに関するものであつて、成分組成とともに、二相組織中で低温変態相の体積率が三〇%以下、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下であることを必須要件とすることにより初めてその目的を達成したものであり、このことは、本願明細書(本願発明の出願公開公報、以下「本願公報」という。及び昭和六〇年六月一一日付け手続補正書、以下「本願補正明細書」という。)の記載から明らかである。

本願発明における剪断縁の加工性は、伸びフランジ成形性(穴拡げ性)と曲げ成形性によつて評価され、これらの測定法については、「鉄鋼要覧」(甲第八号証)の第四九三頁ないし第四九五頁、第五〇三頁、第五〇四頁に示され、かつ本願公報の第1図、第2図、本願補正明細書の第6図(以上別紙参照)に特質的に示されている。

これに対し、引用例記載の〇・六以下の低降伏比をもつ低降伏比高強度複合鋼板は形状凍結性が良好で、小さい歪量で成形が完了する高強度複合鋼板であつて、引用例記載の発明はこのような鋼板を製造することにあり、張出し成形性が枢要で、その測定法、性能評価法は前記甲第八号証の第四九一頁ないし第四九三頁、第五〇六頁、第五〇七頁に示されており、本願発明と大きく異なつている。

より具体的にいうならば、引用例記載の発明においては、ある成形製品を得るに当つてその成形(張出し成形)が如何に簡単(低降伏比)に達成されるかが技術的課題であり、一般的に剪断して準備された素材(板材)の端縁部(剪断縁)は切り捨てられ成形製品に残ることはない。成形製品に残ることのない剪断縁に関して、該部分の加工性が問題となる余地はない。これに対して、本願発明の剪断縁加工性は、剪断加工を受けた部分(例えば打抜き等の孔縁部分)に対してさらに穴拡げや曲げ加工等の二次加工が加えられて、製品にそのまま残る場合であり、製品にそのまま残る部分であるから、二次加工性が重要であつて、しかもその二次加工性は本来の素材の有していた特性が一次加工(剪断)によつて変質した後の加工性であり、低降伏比鋼板に求められる特性とは次元も様相も甚だしく異なつている。

したがつて、審決は、本願発明は剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板であるのに対し、引用例記載の発明は〇・六以下の降伏比をもつ低降伏比高強度複合鋼板の製造方法である点で相違することを看過したものである。

2  審決は、相違点①についての判断において、まず、体積率について、「引用例記載の発明の鋼板のように炭素の含有率が低くてしかも冷却温度が速い場合には、二相組織中での低温変態相の体積率が低くなることは自ら明らかであり」と認定しているが、炭素含有率が低くても冷却速度が速い場合は、二相組織中での低温変態相の体積率が高くなることは明確であつて、右認定は誤りである。

この点について、被告は、右認定の誤りを認めながら、乙第一号証(「日本金属学会会報」第一九巻第一号、昭和五五年一月二〇日発行)及び乙二号証(同会報第一九巻第六号、同年六月二〇日発行)の記載事項に基づいて、二相組織は一般に低温変態相の体積率が三ないし二〇%又は五ないし三〇%である旨主張する。

しかしながら、乙第一号証の図7(第一四頁左欄)では、横軸のマルテンサイト体積率において三%から九五%程度まで多様な場合が示されており、これが一般的体積率の範囲である。乙第一、第二号証に、被告指摘のような記述があるのは、該論文の発表者の取り扱つたものがそうした範囲であつたというにとどまり、二相組織鋼の全般がそうした範囲であるわけはない。乙第二号証においても、各相体積率に関する図3(第四四〇頁左欄)では、α'(マルテンサイト)体積率が三七%前後の場合が示されており、空冷や炉冷ならばともかく、審決認定のような冷却速度が速い場合はマルテンサイト体積率が三〇%以上であることが示されているから、被告の前記主張は失当である。

次に、審決は、硬度比について、「引用例の発明の詳細な説明の項における実施例2に記載されているように、冷却手段として水冷ないし沸騰水冷却する場合には、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が小さくなることは自ら明らかであるので、引用例記載の発明は、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が低く」なつていると認定している。

しかしながら、引用例記載の発明は、沸騰水中に急冷することに関するものであり、沸騰水冷却する場合には本願補正明細書の第5図(別紙参照)のサイクルDであり、このHvM/HvFは、第10表に示されているように、四・八、四・六、五・四であつて、いずれも本願発明の三・二以下になつていないから、審決の右認定は誤りである。

焼戻しの結果として、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値は、水冷ないし沸騰水冷却した後で焼戻しする前のものよりも小さくなることは認めるが、そうだからといつて、引用例記載の発明における硬度比が本願発明と同一であるとはいえない。

この点について、被告は、乙第三号証(「鉄鋼材料便覧」日本金属学会及び日本鉄鋼協会編、丸善株式会社昭和五一年一〇月二〇日発行)を示して測定方法の特定がない旨主張するが、本願補正明細書には被告の認めるようにこの硬度比の測定方法が定義されており、また、右乙第三号証においてもHvがビツカース硬度を意味することは明確であり、このことは技術常識でもある。鋼材のマクロ的な硬さを評価する場合、種々の測定方法があるとしても、二相組織鋼のような一般に一〇λmを下回るサイズの結晶粒について個々の硬度を評価するためには技術的にビツカース硬度測定以外に存在しない。

そして、本願発明は、前記1において主張したとおり、成分組成とともに、二相組織中で低温変態相の体積率が三〇%以下、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下であることを必須要件とすることにより、剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板、より具体的には、剪断による割れ感受性が小さく、伸びフランジ成形性(穴拡げ性)や曲げ成形性の優れた二相組織鋼板を得るという作用効果を奏するものである。

この点について、被告は、乙第四号証(「塑性と加工」第二一巻第二三七号、日本塑性加工学会昭和五五年一〇月二〇日発行)を示して、本願発明の剪断縁加工性は二相組織鋼板においては普通のものにすぎない旨主張する。

しかしながら、乙第四号証の「供試材」の項に、「S量については、複合組織鋼は、〇・〇〇三%以下の極低硫鋼のみである」(第八九一頁左欄第一二行、第一三行)と記載されているように、乙第四号証のものは、S以外に開示がなく、明らかにされたそのS値〇・〇〇三%以下は引用例の実施例(第1表)における〇・〇〇八%よりも非常に低く、また二相組織鋼が他の強化鋼(析出強化鋼、固溶体強化鋼)とTS及び2Pの関係においては何らの有意差がないから被告指摘の図9はSの効果であることは技術的に明らかであつて、被告の右主張は不当である。

したがつて、本願発明の相違点①に係る構成は、単なる数値限定であつて、当業者であれば特段の創意なくして容易になし得たものであり、この点に関する剪断縁の加工性が優れるという効果は、引用例記載の発明を実施することにより当然得られるものである、とした審決の判断は誤りである。

第三請求の原因に対する認否及び被告の主張

一  請求の原因一ないし三の事実は認める。

二  同四は争う。審決の認定、判断は正当であり、審決に原告主張の違法は存しない。

1  引用例には、低降伏比高強度複合鋼板、すなわち、二相組織鋼板の発明が記載されているから、本願発明と引用例記載の発明との差異は、本願発明が剪断縁の加工性が優れているのに対し、引用例記載の発明が低降伏比高強度である点にあるが、両者の鋼板はいずれも成形用薄鋼板であつて、用途の点で一致している。そして、成形用薄鋼板である以上、少なくとも成形加工することができる程度に剪断縁の加工性が優れていることや低降伏比高強度であることの特性が要求されることは当然のことであつて、引用例記載の発明の鋼板においても、剪断縁の加工性は優れている。

したがつて、審決が審決摘示の相違点を除くその余の点では両者は軌を一にしている、と認定したことに誤りはない。

2  審決が、相違点①についての判断において、体積率について、「引用例記載の発明の鋼板のように炭素の含有率が低くてしかも冷却温度が速い場合には、二相組織中での低温変態相の体積率が低くなることは自ら明らかであり」と認定したのは、誤りであることは認める。

しかしながら、二相組織鋼板の低温変態相の体積率が三〇%以下であることは、本件出願前普通に知らされていたことである。すなわち、乙第一号証には、DP鋼(二相組織鋼)は一般に体積率で三ないし二〇%のα'相(マルテンサイト相)と残部α相(フエライト相)から構成されていることが記載(第一二頁右欄図5下第九行、第一〇行)されており、乙第二号証には、dual phase鋼板とは、フエライト粒のマトリツクスの中に孤立した多数の島状のマルテンサイト粒が体積率にして五ないし三〇%程度の範囲内で等方向に分散した組織を基調とするものであることが記載(第四三九頁左欄第六行ないし第一〇行)されているから、低温変態相の体積率が三〇%以下であることは普通に知られており、この本件出願当時の技術水準に基づいて当業者が引用例を見た場合には、引用例記載の発明の鋼板における二相組織中の低温変態相での体積率は低くなつていると理解される。

したがつて、相違点①についての判断において、引用例記載の発明の鋼板における二相組織中での低温変態相の体積率が低くなつているとした審決の認定に誤りはない。

次に、硬度比については、引用例の発明の詳細な説明の項における実施例2には、鋼板は水冷後二五〇度Cで一分間の焼戻しを受けていることが記載されているから、審決の「冷却手段として水冷ないし沸騰水冷却する場合」とは、「冷却手段として水冷ないし沸騰水冷却し焼戻しする場合」の誤記である。

そして、焼戻しの結果として、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値は、水冷ないし沸騰水冷却した後で焼戻しする前のものよりも小さくなることは技術常識である。

一方、本願発明において、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下にすることによつて打抜き感受性を小さくすることが可能であるとされた根拠は、本願補正明細書の第2図(別紙参照)に示されているが、この記載内容を参照してもマルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下であることが臨界値であるとすることはできない。

また、本願発明におけるマルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の定義については、本願補正明細書に第二相の硬さHvMと母相フエライトの硬さHvFの比HvM/HvFが三・二以下である、と定義されている(第六頁第一〇行ないし第一二行)とはいえ、硬度はその測定方法が特定されて初めてその数値を比較することができるものであつて、硬度の測定方法の特定がない場合には硬度値も、その比の値も意味をもたない。このことは、乙第三号証の記載から明らかである。すなわち、乙第三号証には、「一〇・六・七硬さ関係表」の項の第10.8表に、例えばビツカース硬度九二四及び二九三に相当するシヨア硬度は九六・六及び四二・五であり、前者の硬度比が三・一五であるのに対して後者の硬度比は二・二七であつて、両者は一致していない。

したがつて、硬度比の特定がない以上マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下である点に臨界的意義を見いだすことはできないので、「マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値を単に数値限定することは、当業者であれば容易になし得たものである」とした審決の判断に誤りはない。

さらに、引用例記載の発明も剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板であることは前記1のとおりであるから、剪断縁の加工性の優れているという効果は、引用例記載の発明が当然に奏する効果である。しかも、本願発明の剪断縁の加工性は、二相組織鋼板において普通のものにすぎないことは、乙第四号証の記載から明らかである。すなわち、乙第4号証の図9(第八九三頁右欄)には、打抜き穴広がり率と引張強さの関係が記載されており、各鋼の打抜き穴広がり率を見ると複合組織鋼が約一五ないし六〇%、析出強化鋼が約二四ないし七八%、固溶体強化鋼が約三五ないし八五%、析出及び固溶体強化鋼が約二〇ないし六二%であることが記載されているが、本願発明の鋼板の打抜き穴広がり率は例えば四五・三、四一・三(本願補正明細書第2表の第一番目及び第六番目の鋼)であり、事実上一致している。

したがつて、「本願発明の効果は格別顕著であるとは認められない」とした審決の判断に誤りはない。

第四証拠関係

証拠関係は、本件訴訟記録中の書証目録記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

理由

一  請求の原因一(特許庁における手続の経緯)、

二(本願発明の要旨)及び三(審決の理由の要点)の事実は、当事者間に争いがない。

1  原告は、審決は、本願発明と引用例記載の発明とを対比判断するに当たり、本願発明は剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板であるのに対し、引用例記載の発明は〇・六以下の降伏比をもつ低降伏比高強度複合鋼板の製造方法である点で相違することを看過した旨主張する。

前記審決の理由の要点及び成立に争いのない甲第四号証によれば、審決は、本願発明の要旨を特許請求の範囲記載のとおり認定した上、本願発明と引用例記載の発明とを対比し、両発明は、相違点①及び②において相違し、「その余の点では、両者は軌を一にしている」と認定している。

しかしながら、本願発明の特許請求の範囲における「剪断縁の加工性の優れた」二相組織鋼板という記載は、本来発明の構成要件とならない作用効果について記載したものであり、この点において本願発明と引用例記載の発明とが相違するということは、両発明の構成によつて生じる作用効果の差異を主張するものに他ならず、このことは、原告の主張(審決の取消事由1)からも明らかである(前記審決の理由の要点によれば、審決も相違点を判断するに当たり「この点に関する剪断縁の加工性が優れるという効果は、引用例に記載された発明を実施することにより当然得られるものであつて、格別顕著であるとは認められない」との判断を示している。)。

2  そこで、以下相違点①についての審決の判断の当否について検討する。

(一)  前掲甲第四号証及び成立に争いのない甲第二号証及び第三号証によれば、本願明細書には、本願発明の技術的課題(目的)、構成及び作用効果について、次のとおり記載されていることが認められる。

(1) 一般に、鋼板に要求される成形性としては、①張出し成形性、②深絞り成形性、③伸びフランジ成形性、④曲げ成形性があるが、③及び④、特にフランジ成形性の良否が剪断縁の加工性に重要な役割を果たしており、鋼板の伸びフランジ成形性を向上させるための工夫がなされてきた。ところが、近時自動車の低燃費化を目的として車体の軽減が強力に押し進められ、そのために鋼板の高張力化が脚光を浴び、高い強度と優れた成形性という要求に合致した鋼板としてフエライト低温変態相から成る二相組織鋼板が注目されている。

しかし、このようなミクロ組織を有する鋼板は、強度と延性のバランスにおいては優れた特性を有するが、伸びフランジ成形性(穴拡げ性)に関しては従来の鋼板に比べ劣つており、その支配的要因は明らかにされておらず、好ましい安定した伸びフランジ成形性を得ることができない不利がある(本願補正明細書第二頁第一一行ないし第五頁第四行)。

本願発明は、前記の知見に基づき剪断縁の冷間加工性の著しく改善された鋼板を提供することを技術的課題(目的)とするものである(同第二頁第八行ないし第一〇行)。

(2) 本願発明は、前記のミクロ組織を有する鋼板の伸びフランジ成形性を支配する冶金学的因子について研究と検討を重ねた結果、その主要因子を解明し(同第五頁六行ないし第一二行)、本願発明の要旨(特許請求の範囲)記載の構成(同第一頁第五行ないし第二頁第六行)を採用したものである。

(3) 本願発明は、前記構成、すなわち、フエライトマルテンサイトの二相組織を有する鋼板において特定成分組成を採用するだけでなく、前記二相組織中での低温変態相の体積率を特定し、しかも二相組織間の硬度比を特定範囲とすることにより、特に打抜き感受性の小さい、換言すれば、剪断に伴う伸びフランジ成形性劣化の小さい二相組織鋼板を得る(同第五頁第一〇行ないし第一七行)という顕著な作用効果を奏するものである。

(二)  引用例に、審決の理由の要点2摘示の技術内容が記載されていることは、当事者間に争いがない。

原告は、本願発明と引用例記載の発明との審決認定の相違点①、すなわち、本願発明は二相組織中での低温変態相の体積率が三〇%以下であるとともに、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下であるのに対して、引用例記載の発明は、これらの数値限定をしていない点についての審決の判断は誤りである旨主張する。

まず、審決が、相違点①についての判断において、体積率について、「引用例記載の発明の鋼板のように炭素の含有率が低くてしかも冷却温度が速い場合には、二相組織中での低温変態相の体積率が低くなることは自ら明らかであり」と認定したのは、誤りであることは被告の認めて争わないところである。

被告は、本件出願当時における二相組織中の低温変態相で体積率が三〇%以下であることは普通に知られており、この本件出願当時の技術水準に基づいて当業者が引用例を見た場合には、引用例記載の発明の鋼板における二相組織中の低温変態相での体積率は低くなつていると理解される旨主張する。

成立に争いのない乙第一号証によれば、「日本金属学会会報」第一九巻第一号(昭和五五年一月二〇日発行)中の高橋政司他二名「加工用低降伏比複合組織高張力鋼板」には、多量の軟質なフエライトα相と少量の硬質なマルテンサイトα'相から成る特徴的なミクロ組織を有するDP鋼板(本願発明の「二相組織鋼板」に相当する。)の製造方法及びその機械学的特性と冶金学的因子が解説されているが、「DP鋼板の金相組織」の項に「DP鋼は写真1に示したように、一般に体積率で三ないし二〇%のα'相と残部α相から構成されており」(第一二頁右欄図5下第九行、第一〇行)と記載されており、かつ右写真1のDP鋼板のC及びMn基本組成はC 〇・〇七%、Mn一・五五%のものであることが認められる。

また、成立に争いのない乙第二号証によれば、同会報第一九巻第六号(同年六月二〇日発行)中の古川敬「Dual Phase鋼板の組織と機械的性質」には「dual phase鋼板とは、フエライト粒のマトリツクスの中に、孤立した多数の島状のマルテンサイト粒が(体積率にして五ないし30%程度の範囲内で)等方向に分散した組織を基調とするものである。」(第四三九頁左欄第六行ないし第一〇行)と定義されていることが認められる。

右認定事実によれば、本件出願当時二相組織鋼板における二相組織中の低温変態相の体積率が三〇%以下であることは普通に知られており、この本件出願当時の技術水準に基づいて当業者が引用例を見た場合、引用例記載の発明の鋼板における二相組織中の低温変態相での体積率が低くなつていると理解することができる。

次に、審決は、硬度比について、「引用例の発明の詳細な説明の項における実施例2に記載されているように、冷却手段として水冷ないし沸騰水冷却する場合には、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が小さくなることは自ら明らかであるので、引用例記載の発明は、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が低く」なつていると認定しているが、成立に争いのない甲第五号証によれば、引用例の実施例2には、「前述実施例にて用いられた鋼Cを、八〇〇度C一分間連続焼鈍均熱の後、沸騰水冷却した場合と〇度Cの冷水にて冷却した場合について、冷却ままの材質と二五〇度C一分間焼戻した後の材質を第Ⅲ表に示す。」(第四頁左上欄第二行ないし第六行)と記載されていることが認められるから、審決の「冷却手段として水冷ないし沸騰水冷却する場合」との認定は、被告主張のとおり、「冷却手段として水冷ないし沸騰水冷却し焼戻しする場合」の誤記であると認められる。

しかしながら、前掲甲第五号証によれば、引用例には、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値についての記載も示唆も存しないことが認められるから、焼戻しの結果として、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値は、水冷ないし沸騰水冷却した後で焼戻しする前のものよりも小さくなるからといつて、当然に引用例記載の発明における硬度比が本願発明と同一又は近似した値であるということはできない。

前掲甲第四号証によれば、本願発明は、剪断に伴う伸びフランジ成形性劣化の小さい二相組織鋼板を得るという技術的課題を解決するために前記構成、すなわち、フエライトマルテンサイトの二相組織を有する鋼板において特定成分組成を採用するだけでなく、前記二相組織中での低温変態相の体積率を特定し、しかも二相組織間の硬度比を特定範囲とするという構成を採用したものと認められるところ、本件全証拠を検討しても本件出願前当業者にマルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値を問題とすることについての認識があつたことを示す証拠は存しない。

かえつて、前掲甲第五号証によれば、引用例記載の発明は、従来の高強度鋼板は一般に降伏比が高すぎるのでプレス加工においてスプリングバツクを生じること、また加工硬化能が低いので変形加工に際して局所歪みが集中して割れてしまう傾向が大きい等のために広汎な普及が困難であり、鋼板使用者において降伏比が〇・六以下でかつ引張強度が40kg/mm2以上の低降伏比高強度鋼板を要求している(第一頁右下欄第八行ないし第一六行)との知見に基づき、低降伏比にして引張強度が熱的に安定した複合組織鋼板を提供することを技術的課題とする(第二頁右上欄第一〇行ないし第一三行)ものであつて、本願発明のような剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板を提供するという技術的課題については記載も示唆も存しないことが認められる。

そして、前掲甲第二号証及び第四号証によれば、本願公報に第1図及び第2図(別紙参照)が示され、本願補正明細書の「図面の簡単な説明」の項には「第1図は本発明の製造例によるものについて第二相体積率と穴拡げ率(2P)の関係を示した図表、第2図は穴拡げ劣化率(D2)に及ぼす第二相硬(HvM)と母相フエライト硬さ(HvF)の比(HvM/HvF)の影響を示した図表」(第三二頁第一五行ないし第二〇行)と記載され、かつ発明の詳細な説明の項に「二相組織鋼板の伸びフランジ成形性を限界穴拡げ率で評価すると、第二相低温変態相の体積率増加に伴つて第1図に示す傾向が認められる。蓋し第1図中の鋼1、4、5は、後述する第1表中の鋼に対応するもので、図から明らかなように、穴拡げ率は、第二相体積率の増加に伴つて低下する傾向が認められるが、とくに第二相体積率が三〇%を越えると穴拡げ率が急激に低下する。従つて、本発明においては、第二相体積率が三〇%以下であることを必須構成要件とする。更に、本発明者等は、硬質第二相と母相の硬度比を三・二以下にすることによつて、打ち抜き感受性を著しく小さくすることが可能であることを見出した。これは第2図に示すところである。即ち第2図から明らかなように、穴拡げ劣化率(D2)は、第二相体積率の量によつて上下するが、同一体積率で見ると第二相と母相の硬度比が三・二を越えると急激に増加することが解り、すなわち打ち抜き感受性が増大する。従つて、上記のごとく、本発明では、第二相低温変態相の硬さと母相フエライトの硬さの比を三・二以下にすることを必須の構成要件とする。」(第一〇頁第一八行ないし第一一頁第二〇行)と記載されていることが認められ、右記載事項を参酌して第1図及び第2図を見れば、本願発明において、二相組織中での低温変態相の体積率を三〇%以下とするとともに、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下とする数値限定には技術的意義のあることが明らかである。

この点について、被告は、「本願補正明細書の第2図(別紙参照)を参照してもマルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下であることが臨界値であるとすることはできない。また、硬度はその測定方法が特定されて初めてその数値を比較することができるものであつて、本願発明では硬度の測定方法の特定がないから、硬度値も、その比の値も意味をもたない。」旨主張する。

しかしながら、前掲甲第二号証及び第四号証によれば、前記第2図により、穴拡げ劣化率(D2)は、第二相体積率の量によつて上下するが、同一体積率で見ると第二相と母相の硬度比が三・二を越えると急激に上昇することが認められ、また、第6図によつて本願発明の製造例4(第8表の鋼板10、11)のものを八〇〇度Cで焼鈍後第5図(以上いずれも別紙参照)に示す冷却サイクルを経た場合の冷却サイクル別による硬度比と穴拡げ劣化率の関係を要約した結果を見ると、硬度比三・二以下にすると、穴拡げ劣化率において安定した効果を得られることが認められるから、硬度比三・二以下と特定したことに臨界的意義があるというべきである。さらに、前掲甲第四号証によれば、本願補正明細書には、「第二相の硬さ(以後HvMと称す)と母相フエライトの硬さ(以後HvFと称す)の比(以後HvM/HvFと称す)が三・二以下である」(第六頁第一〇行ないし第一二行)と定義されていることが認められ、Hvがビツカース硬さ指数を表すこと、ビツカース硬さ指数が押込み硬さの代表的なものであることは技術常識であるから、本願発明の特許請求の範囲に硬度比の測定方法が記載されていなくても、当業者であれば、本願明細書の記載事項に基づいて、本願発明においてマルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下とは、ビツカース硬度測定法によつて得た硬度の比をいうことを明確に理解できるから、右硬度値及びその比の値が意味をもたない、ということはできない。したがつて、被告の前記主張は理由がない。

また、被告は、「引用例記載の発明も剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板であることは前記1のとおりであるから、剪断縁の加工性の優れているという効果は、引用例記載の発明が当然に奏する効果である。しかも、本願発明の剪断縁の加工性は、二相組織鋼板において普通のものにすぎないことは、乙第四号証の記載から明らかである」旨主張する。

しかしながら、引用例記載の発明は、二相組織中での低温変態相の体積率が低くなつているといえても、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値は明らかでなく、剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板であると認めることはできない。また、成立に争いのない乙第四号証によれば、「塑性と加工」第二一巻第二三七号(日本塑性加工学会昭和五五年一〇月二〇日発行)中の松藤和雄他四名「複合組織型高張力熱延鋼板のプレス成形性」は、「複合組織鋼、析出強化鋼および固溶体強化鋼を含めた高張力熱延鋼板全般のプレス成形性の影響に及ぼす材料特性値を把握し、主として、低降伏比複合組織鋼と従来鋼のプレス成形性の優劣を明らかにした」(第八九〇頁右欄第一二行ないし第一五行)論文であつて、その図9(第八九三頁右欄)には、打抜き穴広がり率と引張強さの関係が図示されているが、実験に用いた「供試材」(第八九一頁左欄第三行ないし第一六行)を検討しても、本願補正明細書に記載された本願発明における同一成分のものとの効果上の対比は明確でなく、また、穴広がり劣化率を示す資料も記載されていないから、この記載から直ちに本願発明の剪断縁の加工性は二相組織鋼板において普通のものにすぎない、ということはできない。したがつて、被告の前記主張は理由がない。

(三)  以上の認定事実によれば、本願発明において二相組織中での低温変態相の体積率を三〇%以下とするとともに、マルテンサイト硬度のフエライト硬度に対する比の値が三・二以下とする数値限定には技術的意義があり、これに対して、引用例記載の発明における右硬度比は明らかでなく、しかも引用例には本願発明のような剪断縁の加工性の優れた二相組織鋼板を提供するという技術的課題については記載も示唆も存しないから、当業者においてこのような引用例記載の発明に基づいて相違点①に係る本願発明の構成を得ることは容易になし得ることではない。

したがつて、本願発明の相違点①に係る構成は、単なる数値限定であつて、当業者であれば特段の創意なくして容易になし得たものであり、この点に関する剪断縁の加工性が優れるという効果は、引用例記載の発明を実施することにより当然得られるものであつて格別顕著なものではない、とした審決の判断は誤りである。

3  以上のとおりであつて、本願発明と引用例記載の発明との相違点①についての審決の判断は誤りであり、審決は右判断を誤つた結果、本願発明は引用例記載の発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたとしたものであるから、違法として取消しを免れない。

三  よつて、審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は正当としてこれを認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条の各規定を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竹田稔 裁判官 春日民雄 裁判官 岩田嘉彦)

〈以下省略〉

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